2010年04月26日

第二のふるさとはいま

今から20年前、学生だったぼくはパキスタンの街を歩いていた。
生まれて初めての海外。
大学の調査旅行で降り立ったこの街は、アフガニスタンへ向う国境の街。
古代から西と東の様々なものが出会い、融合した地。
今も多くの民族が暮らしている。

この街は、乾いた地にあって、常に埃っぽくって、日射しは強い。
でも、いつも雲一つないすっきりとした青空があって、それがとても鮮烈だった。
多くの車に混じってロバの引く車が行き交い、民族衣装を着た人たちが強い照り返しの中をゆっくりと歩いている。
バザールはとても賑やかで、毎日お祭りのようだった。

そんな街のバザールが大好きで地元の人とまったく同じ格好をして歩き回っては「イエ キャ ヘイ(これは何ですか?)」を連発した怖いもの知らずの学生だった。
「ねえ、これいくら?」リンゴ1つ買うにも値段を聞き、交渉をする。
知らない顔やボーッとしていれば途端に値段は跳ね上がる。

そんなバザールを歩いていると、声がかかる。
「どっから来た?」「まあ座って、チャイ飲みな」
チャイは必ずごちそうになるし、昼時なら「一緒にお昼を食べよう」と見ず知らずの人に食堂に連れて行かれる。
道ばたで会った小学生には弁当を分けてもらったこともある。

今なら独りは危ない。と敬遠しそうだが、怖いもの知らずは、ニコニコしながら食堂に行く。
ろくすっぽ言葉が出来ないからコミュニケーションは取れないけど、食べろ、食べろといかついひげ面のおじさんが勧めてくる。
この街の人たちは、とにかく異人歓待が得意だ。
多くの異民族が行き交い、厳しい気候の中から生まれたことだろうが、こんなに暖かく、優しい人たちは世界中探してもいないだろう。

けど、今は、テロリストの潜伏場所らしい、かの国からマークされ空爆の噂までささやかれている。
パキスタンも全土で、危険が高まり、旅行をするのも難しくなってしまったが、今だって行けば、あの時と同じように迎えてくれるに違いない。
いつか、あの空の下をもう一度、笑顔で旅することができる日がくることを心のなかでいつも思っている。

(T.N.)


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2010年03月29日

3月に想う

時はめぐり北緯43度のこの地にも確実に「春」の足音は近づいています。
2月の雪まつりのあと、おまけとばかり数回はあるドカ雪も温暖化の影響でしょうか、今年は一度か二度で済みました。
一昨年、椎間板ヘルニア狭窄症で入院手術を受けた身では、北国の宿命ともいえる雪かきは辛いものがありますが、おかげさま何とか乗り切ることができました。
そして3月、冬と春が行きつ戻りつの日々ですが、季節は着実に春へと向かっています。

また、3月は別れと旅発ちの時。
娘2人がお世話になった地域の小学校で縁があり、5年間PTA会長を務めました。
仕事をもつ身で、定例の運営委員会などは止む無く欠席することもありましたが、入学式・卒業式・運動会など出席を強く求められた学校行事で、巣立つ子どもたちへの餞のことばを述べる卒業式が、個人的にも強く思い出に残っています。

PTA会長を受けた理由が「自分自身を広告塔として《本》・《読書》・《図書館》を子どもたち教員の皆さん、そして保護者をはじめ地域の皆さんに宣伝するため」だったので、学校行事や研修会などで話をするときは言葉の端はしに読書そして図書館のことを出しました。

ある時は、同席した副会長の女性からしつこいと苦情を言われたこともありました。
それでもめげずに自分のスタイルを最後まで押し通しました。
スピーチはいつもNO原稿、校長や来賓が原稿を読んでいるのを尻目に一人一人の「あなた」へ届けとばかり熱く語りました。

「卒業おめでとうございます。家族の皆さんの深い愛情の真っ只中で育ち育てられたことを素直に感謝しましょう。
大人の私たちからは目に見えるものとして皆さんに何もあげる物はありませんが、皆さんの背中には《想像力》という大きな羽が付いています。この羽で一生懸命羽ばたいて、大空へそして世界へ飛んでいってください。」

「人間は地球上の生き物の中で唯一言葉を持ち、言葉で考えることができる生物です。
人という字を思い出してください。支えあってできています。人間とは人の間と書きます。人は一人では生きることができないのです。だから社会を作ります。人は社会の中でつながって生きていきます。言い換えると生かされてあるともいえます。」

「宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないとまで言い切りました。厳しい言葉ですが、本当はそうだと思います。
優しさは人を憂うことから始まります。皆さんはこれから多くの人と出会います。友達になったりけんかしたり、愛し合ったり別れたり新しい家族をつくったり。」

「でも、一生の間に出会える人の数は限られています。本を読むと、読書をするともっと多くの人に出会うことができます。時間や空間を越えて既に亡くなってしまった人や外国の人にも出会い対話をし、尊敬したり愛し合ったりすることができるのです。
本に書かれたことを読み取り、その奥の世界に想像力を働かせ自分の世界を広げていくことができるのです。
本には人の一生を変えてしまうような力があるといわれています。皆さんも早く自分にとっての大事な一冊の本を見つけることができることを、心から願っています。」

「皆さんのこれからの道のりは平坦な道ばかりではありません、山あり谷あり、でも壁にぶつかったときには立ち止まり、今までの出会いの中から自分にとっての最良を掴み取ってください。図書館はいつでもあなたのそばにいてお手伝いいたします。
本日は卒業本当におめでとうございます。」

(M.M.)
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2010年03月23日

聞いてください(津波警報その他もろもろ)

◆聞いてください。その1◆
先日、子どもの学資保険が満期になったので、名義人である私に行ってきてほしいと妻から言われ、郵便局に行った時のこと。
カウンター脇に立った若いスタッフから身分を証明する物の提示を求められ、必要事項に氏名住所を書き、待つこと5分。
さすが民営化になると接客がちがうのかな?と思いつつ、名前を呼ばれ、お金を受け取りにカウンターへ。
そのスタッフはお金を計数機から取り出し即カートンに。そして「ありがとうございました」と言った。

「あれっ?まあ、計数機は間違いないだろう。今更お金を数えるのはヘタだし恥ずかしい」という気持ちが強く、封筒に入れようと思った。
「しかし、まてよ?」と葛藤もあり、「ええい、数えちゃえ!」と数え始めた。
しかし手に油がないためか、20枚もらうはずが19枚しかない。なぜ?
もう一度数えた。自分でも赤面するのが分かったが一言「1枚ないようですけど・・・」
若いスタッフは瞬時に計数機を見て1枚取り出し、「数えていただき、ありがとうございました」と言った。

私は鳩が豆鉄砲を食らったようになって、その爽やかさと一枚上手の対応術に負けてしまった。
私だったら「すみません。○△□・・・」と謝り、今後の対策を言い訳のように述べたであろう。
同じサービス業として動じないで笑顔で対応することの大切さを知り、得したような気分で帰った。
そして、家族にこのことを話したら「あんたはおめでたい。局長に物申して、対策として紙幣の確認をするように言った方がよい」と言われた。
そう言われれば、そうかも・・・
みなさんも私のようにおめでたいでしょうか。

◆聞いてください。その2◆
先日、チリで大きな地震があり、私の住むまちも警報となりました。
幸い(漁業関係者、海沿いに住んでいる方には申し訳ありませんが)被害はありませんでした。

この中で勉強になったことがあります。
ひとつは、合併により守備範囲が広くなり、職員削減が計画的に進んでいるところは、図書館は閉館し現場確認作業要員になること。

もうひとつは津波で家が被害に合いそうな時は、合併浄化槽だったら、ナイロンの袋などで浄化槽の蓋を覆った後にブロックなどで重石をしておくと、汚物が漏れ出さず被害を少なくできること(これは、実際被害に合われた方で、しかも経験豊富な方から聞いた話)。

私が子どもの頃、父親の仕事の関係で海沿いのまちに住んでいたことがありました。
地震で津波注意報や警報が出るたびに夜中でも避難しなければいけないまちでした。

近所のお茶のみおばさん(地元出身者)は、子どもの頃にチリ津波の被害を受けた世代だったらしく、よく教訓話をしてくれました。

地震が来なくても、海の水が引き始めたら高い所に逃げること。
決して、海に行って魚やあわびなど採って遊んではだめなこと。
津波は一度だけではなく、何度も襲ってくること。

親が漁業関係者だったりすると、神経質なほど単独で海に行く子どもを叱り、遊ばせませんでした(今はどうかわかりません)。

そして、子どもの記憶に克明にするため、津波の恐ろしさや悲惨さとして、津波が来るとも知れず海に出て魚を採っていた人が亡くなったこと。
津波を馬鹿にして逃げずに波に呑まれて亡くなった人がいること。
津波の後はたくさんゴミが出て、船も壊れてしまったこと。
津波のせいで歴史的な資料がこのまちには残っていないこと、等々話してくれました。
いま思えば貴重な話だったと思います。

みなさんは、津波が来るかもしれない地域にすんでいたら、ちゃんと避難しますか?
新聞によると、避難した人はえらく少なかったようです。
(Y.K.)
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2010年03月10日

南の島のライブラリアン

とある国の子どもたちは、元気にしているのかな?.JPG僕が青年海外協力隊員として、とある国に赴任していたときのお話です。

僕が日本人であることを知ると、現地の人たちは決まって、「KEIKOは元気にしているか?」とか、「KENを知っているか?」とか、訪ねてくるということが結構ありました。
そのたびに僕は「KEIKOってどこの?」とか、「KENって高倉健のこと?」とか、心の中でつぶやいたものでした。

もちろん彼ら彼女らにとっては、唯一会ったことのある日本人なので、会話の糸口として話しかけてくれたのだと思いますが、「日本には1億人いて、何人のKEIKOやKENがいるのやら、分かっているのかしら?」と相手につっこみたくもなりました。
それでも、僕が知らないと分かったのに「KEIKOってとてもナイスな女性だった。こんなことがあって・・・」とか、「KENってとてもいいやつだった。あのときは・・・」とかいうような思い出を語り続ける様子は、ほほえましくもあり、うらやましくもありました。

さて、最近あるメーリングリストで「つながり」という話題を読みました。その話題を読んでいるうちに上記のことを思い出し、今頃やっと気がつきました。

とある国の人口が70万人ほどだからつながりがもてたのではなく、日本のように1億人いたとしても「つながり」を意識することで、同じようにファーストネームでのつながりがもてるのではないかと。
日本だから無理なのではなく、「つながり」を意識し、日頃から活動することこそが大事だったのです。日本でもできたのです。いや司書としてこの活動はやらなければいけなかったのです。

「人と資料の確かな出会いを作り出すサービスの営み」が、司書の役割であるとむかしむかし司書課程の講習では学びました。
それだけではなく、「人と人の確かな出会い」や「人と図書館の確かな出会い」を作り出すことも司書の役割であると言えるのではないでしょうか。そう今では思います。
「人と人の確かな出会い(つながり)」が、例えば、ビジネス支援サービスや郷土資料サービスの醍醐味のひとつであったりします。
「人と図書館の確かな出会い」が、例えば、4ヶ月検診でお母さんたちに図書館の存在意義をPRすることであったりすると思います。

司書が司書であるために、これからも「道」は続いていきます。

(Y.H.)
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2010年03月01日

いつか毛玉を吐く日

フェレットを飼っています。名前は千作といいます。
フェレットとはペット用のイタチで、にょろんと胴が長く人見知りしない性格で、若干体臭が臭くもありますが大変元気でかわいらしい生き物です。

昨年の秋、4歳の誕生日を無事迎えたのですが、いつもの元気がありません。食欲もなく嘔吐が続くため体重は減る一方で、ぐったり寝てばかりです。
病院につれては行くものの、原因が分からずお手上げです。

不安な気持ちで様子を見守っていたある夜、今までになく激しい嘔吐が始まりました。動物ですからそんな時は明るい開けた場所で吐いたりはしません。テレビの後ろや押し入れの奥など、吐瀉物を撒き散らし、最後には自らのケージの中でひときわ大きく吐き戻しました。

もしやこのまま死んでしまうのではと慌てて抱き上げようとすると、ケージの隅に黒い塊があるのが目に入りました。血でも吐いたのかとタオルをかき分けるとそこにあったのは、えびせんくらいの大きさの毛玉でした。

フェレットは猫と違い、異物を吐きだすことはしません。生まれてこのかた毛づくろいで溜まった毛玉で胃袋がいっぱいになり、具合が悪くなっていたのでした。これが閉塞を起こし手術となると、体への負担はもちろんのこと、看病の面でも金銭面でも大事になるところでしたから、根性で吐きだしてくれた彼にただ感謝するばかりでした。

その後、体調もすっかり良くなった千作、家じゅうを駆け回り、落し物を見つけては隠し、バッグを見るとガサ入れをし、餌を食べ立派な大便を出しています。

彼が我が家にやってきた春に、私は異動で図書館から別の部署に移りました。2年間別の業務に携わり感じたのは気楽さでした。

もちろん初めての業務を覚えるのは大変でしたが、正規職員ばかりの職場は人間関係の煩わしさも少なく、なんといっても業務に対する思い入れがあまり強くない分、意見の対立があったり、事業を実施する上で判断の必要な時にあまり悩まずに結論を出すことができました。自分に与えられた事業目的を真剣に考え、作業の合理化をしたり、どうすればより良いものを提供できるかと悩みもしましたが、精神的な疲労感は全くと言っていいほど感じませんでした。

そして昨年の4月、図書館に再び異動になりました。図書館業務はとっても楽しくやりがいがありますが、やっぱりしんどいなあというのが、11か月たった今の正直な気持ちです。この11か月間に私のおなかに溜まった毛玉は、イガイガと私の心を曇らせるのでした。

猫やフェレットには毛玉症予防の薬として、ペースト状のサプリメントがあります。千作はこれが好物で、週に1回食間に投与すると大喜びです。私の毛玉の薬もどこかにないものかとその様子を羨ましく見つめるワタクシです。

(香川支部 六車)
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2010年02月22日

拝啓、12歳の私へ

中学1年生の星さん、今日も元気に品川図書館分室に通っておられるようで、児童担当の司書として、うれしい限りです。

申し遅れました。私はあなたの20年後です。
品川から遠く離れた徳島県立図書館で児童担当、つまり子どもの本の担当をしています。

たしか、あなたがよく通っている品川図書館分室は「大井子ども図書館」が前身でしたね。
中学校に入学してすぐに、「いろいろな仕事をしている人に話を聞く」という宿題がありましたね。
品川図書館分室の団体サービス係長さんに回答いただきましたね。
図書館内で走り回るのはやめましょうね。大変迷惑ですよ。「建物のヒビがふえる」って怒られましたよね。

たぶん、2年生になったら三者面談とクリスマス会の日が重なるので、時間調整してクリスマス会に参加すると思います(星注:実際に時間調整して参加しました)。
そのとき、出されるクイズの答えも元ネタになった絵本も知っていますが、楽しみが減るので、ひみつにしておきましょう(星注:『やさいのおなか』でした)。

あなたが司書になるまでいろいろありました。また、司書になってからもいろいろつらいことなんかもありましたが、品川図書館分室での楽しい思い出が今でも私の支えになっています。
では、これにて。

ちなみに、品川図書館分室団体サービス係は、この数年後に組織改編で閉館されました。
この分室については清水 梨枝子さんが『みんなの図書館』1986年10月号の「品川区立図書館の児童サービスは、今 (子どもたちの現場から<特集>) 」で触れておられます。
なお、清水さんは私が小学生時代に他館に異動されています。

(徳島支部 星裕美)


やさいのおなか (幼児絵本シリーズ)

やさいのおなか (幼児絵本シリーズ)

  • 作者: きうち かつ
  • 出版社/メーカー: 福音館書店
  • 発売日: 1997/01/31
  • メディア: ハードカバー



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2010年02月08日

図書館の照明

図書館の照明の色は、そろっているでしょうか、それともバラバラになってしまっているでしょうか。
自分が職場の照明の交換をするようになってから、そのようなことが気になりだしました。

とはいえ、人によってさまざまなようで、まったく気にならないという人もいます。
だから、バラバラになっているところはそのままになっているのでしょう。
読者のみなさまは、どのように思われるでしょうか。

照明の色がバラバラになっていると、決していい印象はあたえないと思います。
そもそも、図書館ができたとき、開館当初は色がそろっていたはずです。
なぜ、違う色が混ざってしまうのでしょうか。
一番の理由は、補充の発注の時に、色の指定を間違えてしまうからでしょう。

ここでは、特に蛍光管で考えてみます。
蛍光管の代表的な色は「白色」と「昼光色」ですが、実際に点灯している蛍光管を見て、きちんと区別がつくでしょうか。
どちらかというと赤っぽい色が白色、青っぽい色が昼光色です。
別の表現だと、暖かい感じがするのが白色で、冷たい感じがするのが昼光色です。

言葉だけだと、逆のように思ってしまう人もいるのではないでしょうか。
ただ、これについては、実際に設置している蛍光管にはきちんと表示してあるので、それを確かめておけば、間違えるはずはないのですが。

とは言うものの、きちんと発注したからといって、安心はできません。
納入する業者が間違える場合もあります。
プロなのに、と思っても仕方がありません。

受け取る時には検収していますが、こちらの職員も、本数は数えても色は確かめていなくて、納品の1週間後くらいにはじめて気がつくような次第でした。
さすがにこれは後からでも交換に応じてくれましたけれども。
このように、間違って納品されて、その時にはわからずに、そのまま付けてしまうということも多いのかもしれません。

このほか、蛍光管には、おおまかにいって、点灯管(グロー管)を使う器具に付けるグロースタート管と、点灯管を使わない器具に付けるラピッドスタート管があります。
これも間違えると厄介です。
ラピッドスタートの器具に、グロースタート管を使うと、付けることはできるのですが、とても寿命が短くなります。

地域館でこれを間違えて付けていたことがあり、業者を呼んで点検してもらっても、「器具には異常がない」という報告しかなくて、原因不明になっていました。
結論から言うとその報告に間違いはないのですが、業者も、付けている蛍光管が正しいかどうかは確認しないみたいです。
けっこうよくあることなのではないかな、と思うのですが。

もし、蛍光管がすぐに切れるということがあれば、まず、付いている管が正しいものかどうか確認してみてください。

蛍光管の寿命は、種類によって違いがありますが、いま使っている40W(36W省エネ管)の管では、9000時間とありました。
図書館の開館日数や開館時間をかんがえると、3〜4年といったところでしょうか。
印象としては、定格よりも長く使えるように感じていますが、蛍光管の場合、点灯が繰り返されると寿命が短くなります。

24時間ついている階段の階数表示のサインや非常口のサインの蛍光管のほうが長持ちして、その都度入り切りしている書庫の蛍光管のほうが寿命は短い印象があります。
4年というと長いかもしれませんが、天井に並ぶ蛍光管を4年の間に全部交換するということを考えると、なんだかうんざりしてしまいませんか。

いずれにしても、蛍光管はいつか切れてしまいます。
ちょうど年度末でもありますし、予算が許せば、この際1年分は購入してしまいましょう。
その都度ではなくまとめて発注すれば、誤発注や誤納品が防ぎやすいと思います。

それから、開館したばかりの図書館に勤務されているかたは、数年間は蛍光管の交換を全くと言っていいほどしなくていいので忘れてしまいますが、ある時からどんどん蛍光管が切れてしまいます。
意識していないと、泡を食います。

もうひとつ、開館してから年月が過ぎている図書館でも、集中的に蛍光管が切れる時があります。
理屈から言えば全部同時に切れてもおかしくはないのです。
年度末に限らず、ある程度の在庫は必要です。

図書館の照明の色が同じだったり、切れている照明がないということは、とくに利用する人からほめられたりするほどのことではありません。
それはつまり、あたりまえのことだからでしょう。
あたりまえのことなのだけれども、けっこう手間がかかることだと感じています。

図書館の未来も明るくなりますように。

このコラムを書くにあたり、ウィキペディア(Wikipedia)の蛍光灯の項目を参考にしました。
みなさまにも、参考になると思います。

(広島支部 高野淳)
posted by 発行人 at 09:50 | Comment(0) | リレーエッセイ | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

電車通勤

椅子に花束.jpg1時間に2本の単線ローカル電車での通勤を12年間しています。
自動車で行けば片道40分ぐらいですが、この通勤方法ではバスとの乗り継ぎで片道1時間30分かかります。
電車に乗っている時間は、片道37分で、往復74分です。

実は、この時間が私には読書をしたり勉強したりする時間になっています。
幸い、通勤は都市部から郊外への通勤で、多くの人と反対の方向に向かいますので、100%座れます。
それどころか、がらあきです。
今は冬ですから、電車に乗る前に自動販売機で100円のホットレモネードを買って、手をあたためながら座席に座ります。

電車の中で読んだ本と雑誌は、この12年間で何冊になるかわかりませんが、かなりの冊数になることは間違いありません。
74分ありますから、ちょっとした本は家に帰って続きを読めば1日で、そうでなくても2日で読んでしまいます。
長い時間を要する本でも1週間で読めます。

振り返ってみれば、自分にとって役立った本は、100冊のうちで1冊の割合でしょうか。
考えてみれば無駄なことの繰り返しと言えるかもしれません。

この1年間は、英語をスキルアップしようと、電車の中ではずっと英語の語彙を覚えるか、英字新聞を読んでいます。
ヒアリングのほうは、家に帰ってからかなりの時間を使いましたが、実力はあまり伸びません。
でも、英語を読むスピードは、かなりつきました。

「通勤中に英語を勉強している」と友達のセルビア人の大学生に言うと、「英語が、あなたの仕事に何か役に立つのか?」と言われてしまいました。
そこで、「私の英語学習は朝の散歩みたいなものだ」と答えておきました。
「英語なんか、やめておけ!」というセルビアの大学でドイツ語を専攻する彼は、若いのにほぼ完璧な英語の力があります。
日本人の多くはセルビアってどこにある国かもわからないでしょうね。

さて、私が仕事をしている図書館は田舎にある小さな分館なのですが、英語圏から来ているレギュラーの利用者がふたりいます。
私は「はい、返却OKです」と「はい、どうぞ」というのを英語で言います。
一応、仕事で英語を使っていると断言したいところですが、この「一つ覚え」しか言わないのでは、ちょっと無理がありますね。

それでも、英語学習が図書館の仕事で役立っていると言えることが、ひとつだけあります。
それは、「英語(外国語)は難しいということがわかる」ということです。
日本語でない、よく理解できない別の言語を学ぶことによって、リテラシー(読み書き能力)には莫大な量が必要だということがわかりました。

そこから、図書館の仕事の意義が理解できました。
「なぜ、無料で多くの図書を市民に提供しなければならないのか」がです。
やはり、図書館は「知恵」の基盤です。
そのためには図書館の質と量が必要です。

電車通勤も読書も、「無駄」だと思えば無益な行為です。
でも、その無駄から「大きな何かの糧」が生まれるのですね。
セルビア・クロアチア語でありがとうは「Hvala(フヴァーラ)」と言います。
そんな言葉、普通の人は知っていてもなんの役にも立ちませんね。
何事も、無駄かどうかは人それぞれです。

(広島支部 明石 浩)
posted by 発行人 at 14:23 | Comment(0) | リレーエッセイ | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

山とラーメンと温泉と

山村の小さな公共図書館に勤めています。

もともと超インドア派でしたが、体力づくりも兼ねて3年前から同じく体力下り坂の友人らと低山徘徊をはじめたところ、すっかりハマってしまい、先日も県南にある熊山という500メートル級の低山に登ってきました。

分岐もあわせると40以上の登山コースがあり(迷ってもどこかに下りられます)、かつては修験道の聖地だったそうで、なぞの階段ピラミッド熊山遺跡をはじめとする祭祀スポットも数多く、長く楽しめるいい山です。

下山後は、地元で評判のラーメン屋を襲い、日帰り温泉で山行の疲れを流すのが黄金パターンになってしまいました。

   ***   ***

ところで話は変わりますが、新しもの好きの友人が話題(?)の電子書籍リーダー「Amazon kindle 2」を手に入れたので、「図書館員としてぜひ使い心地を試してみなければ」と、遅ればせながら実機を触らせてもらいました。

1990年代後半にインターネットが家庭に普及しはじめた頃、近い将来紙の本はなくなるだろうと言われ、電子ブックリーダーの類も数多く発売されましたが、これまでは端末機の価格や道具としての使い勝手の悪さ、著作権処理の煩雑さ、コンテンツの少なさなどが災いしてなかなか普及してこなかったように思います。

Kindle 2を触ってみて、書籍データの全文検索など紙の本にはマネのできない機能もありますし、バッテリーも無線通信を控えれば2週間程度と、これまでの機器にくらべるとかなり長持ちするようです。

液晶画面のサイズは6インチと文庫サイズに近い大きさ(本体は単行本より一回り大きいくらい)ですが解像度も高く見やすいと感じました。

なにより3G回線によるワイヤレス通信でPCなどを介さず手軽に書籍データをダウンロードできるのが便利です(が、請求額を気にせずなんでもポチってしまいそうで怖い。)

30万冊近いコンテンツが利用できるそうですが、今のところ日本語対応は未定で、英語が苦手な自分には残念です;

Google book searchの和解案では、当面日本を含む英語圏外の著作物がデジタル配信の対象外になったことで、国内の出版者にとっては対抗策を講じる時間が得られましたし、著作権法が改正され国立国会図書館でも大規模な資料の電子化に動きだしているようで、書籍のデジタル化に向けた動きは加速していくのでしょう。

ライバル機も含めてKindle 2自体は、しばらくは新しもの好きを喜ばせるデジタルガジェットという位置づけになるかもしれませんが、端末の価格が下がって日本語のコンテンツが増えれば、数年後にはゲームや音楽のように、活字データをダウンロードして楽しむスタイルが当たり前になっているかもしれません。

それにあわせて「物」としての資料を扱う司書の役割、また本と出合う「場」としての図書館の有り様も大きく変わる可能性があります。

図書館(員)が、時代の変化のスピードに取り残されず住民に求められる存在で有り続けることができるのか。

そんな風に感じるこのごろです。

(岡山支部 松村 謙)
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2010年01月12日

正規職員、非正規職員ともに担う図書館を

私は兵庫県の西宮市で司書として働いています。
西宮の図書館は拠点館4館、分室7室(大新東に運営を委託)で組織され、拠点館にはアルバイトを除くと79名の職員がいます。
そのうち正規司書は12名(うち1名は有資格の行政職)、嘱託司書は44名です。
そして正規司書はほぼ全員が50歳以上で数年後には退職者が出て、このままでは正規職員の司書はいなくなってしまうのでは…という状態です。

正規司書は27年間採用がなく高齢化しているのですが、一方で、嘱託司書は新館が作られるたびに採用され、拠点館職員の半数以上をしめるようになりました。
その仕事も補助的なものだけではなく、館によっては主題ごとに各書架の主担当になり、その主題の購入や展示方法などもまかされるなど、図書館の中心というべき仕事も担うようになっています。

1997年には市全体の西宮市嘱託職員労働組合が結成され、さらに2002年には図書館支部も生まれました。
嘱託司書には1980年代の導入当初は2〜3年の年限があったのですが、1998年には雇い止めが廃止され、現在では各種の有給休暇や経験年数加算制度が設けられ、最終雇用年齢は63歳となりました。
これらは嘱託司書自身が当局と交渉を重ねて獲得してきたものです。
ただ、雇い止めはなくなっても1年更新は変わらないので、「委託や指定管理など情勢が変わればいつ切られるかわからない。不安感が常にある」という切実な声もあります。

昨年の春から、正規司書が退職した後の状況をどうしていくか、正規司書に職員組合の役員を交えて話し合いを続けています。
図書館本来の役割を果たすには、直営で正規司書がいる図書館であるべきだと全体で一致することができました。

そこで、正規司書の採用を訴えるために、図書館にはどのような仕事があり、正規司書がやらなければならない仕事は何かが明確になる基礎資料を作ろうとしています。
図問研の「公共図書館職務区分表 2003年版」をベースに、現在の西宮の図書館業務と照らし合わせながら、図書館外の人にも理解されるものを作ろうとしています。
図書館の役割を伝え、正規司書の採用のためにと始めた作業ですが、私自身にとっては、あらためて図書館の働きの広さと深さをみつけ、まだまだできていないことが多いのだという気づきの機会にもなりました。

嘱託司書もこの間、別に集まりを持ち、今後の図書館と自分たちの働き方について話し合っていました。
来月からはできあがった職務区分表をもとに、正規司書と嘱託司書が一緒に検討していく予定です。
個々の仕事をまじめにこなすだけでは、大きな波が襲えば流されてしまいます。
流されないために、どんな図書館をめざしたいのかを一緒に考え、それに向けて正規職員、非正規職員がともに担う図書館を目指していこうと思います。

さらに、委託の分室で働く会社スタッフとのつながり、また、図書館協議会や図書館友の会のない西宮市で、住民から図書館を支えてもらうにはどうすべきかが、これからの大きな課題だと考えています。

(島崎晶子)
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2010年01月01日

カルタでお正月

高知県南国市は平成21年10月に市制施行50周年を迎えました。
そこで、図書館としても細々と関連企画を実施していたのですが、11月に姉妹都市である宮城県岩沼市を知ろうという企画展をしました。

岩沼市図書館様から様々な資料をお借りした中に、「いわぬま郷土カルタ」がありました。
平成13年頃だったかに市民から句を募集して絵画グループが絵をつけて作ったものでした。

2回、図書館でのおはなし会のおまけで小学生が対戦しました。
白熱して、喧嘩しないようにちょっと気を遣いました。

それから、1回は地域の高齢者サークルの集まりに出かけていきました。
結構本気で取り合っていましたが、笑いもいっぱい。
そして取り終わった後は、絵札をきちんと並べて一枚一枚読み上げて絵や内容を鑑賞しました。
名所旧跡はもとより文化施設や高齢者施設なども詠まれていて、「充実してるね、いいねえ」「南国市にもほしいねえ」「来年、花の頃に行きたいねえ」などと話に花が咲きました。

この会は高知新聞に取材依頼をしていたのですが、ごめんまち商店街の町おこしのために設置したばかりのばいきんまん石像のツノを折られるという「大事件」が起きて....
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091116/crm0911161831027-n1.htm

因みに、南国市には「なんこく食育かるた」があります。
数年前、全国に先駆けて「食育」に取り組んでいた南国市教育委員会が、子どもたちから絵と文を募集して作ったものです。
新年一回目のおはなし会でやろうかなっ!

(S.T.)
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2009年12月14日

夢の図書館

勤務している図書館の中央図書館に、小学生の描いた「夢の図書館」が展示してありました。これを見ていると、じつにほほえましく、たのしい気持ちになります。

いくつか紹介してみようと思います。

海と山がつながった図書館。
ここでは海や山で遊びながら本が読めます。配架はテントで分けられていて、ゾロリの本のテント、図鑑の本のテント、まんがのテントに分かれています。僕は、山をのんびり歩くのが好きなので行ってみたいな。

動物がいる図書館。
図鑑が置いてあって、その前に図鑑に載っている動物がいます。楽しそうです。

巨大な本の図書館。
図書館自体が本になっています。利用者は、自分の行きたい場所にしおりをはさむとそこに行けるのです。うーん、前衛的ですね。

想像力がすばらしいと思いつつ、お前はどういう「夢の図書館」を描くのか、と自らが問われているかのようにも思いました。

図書館とは、社会の中での実践であり、何かをバイブル視してしまうことなく、柔軟に考えていかなければいけないな、と思います。
ただ、それは図書館の原則的なことを相対化するということではありません。

この小学生が描いた「夢の図書館」の中に、次のようなことがありました。
「だれでもかんたんにつかえる図書館」には、「大人も子どもも楽しく利用できる」とあります。

「本だなが動く図書館」では、小さい子どもから大きい大人まで、身長にあわせて、書架が動きます。高すぎて、本が取れないということがないのです。
誰もを対象にする第一線公共図書館の本質的なところを突いているな、と感心します。

夢の図書館は、このリンクの下のほうにあります。
https://www.library.city.nagoya.jp/oshirase/topics.html

公立公共図書館に勤務して、7年半が経過しました。
アタマもハートも硬直化しつつあるという自覚が出てきたこの頃、日々の現状の中で気持ちが折れそうになることもあります。
小学生の描く夢の図書館を見て、図書館業を廃業しない限り、日々の職務の遂行と、「夢の図書館」を想わなくてはいけない、と思った次第です。

(K.S.)
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2009年12月07日

試論:社会の自立を支える公共図書館へ

8月30日の衆議院選挙の結果を「革命的」と評する人は少なくない。
はじめは半信半疑だった私だが、国の事業仕分けに関する人々の受け止め方を観察するうちに、確かにこれは「革命的変化」かも知れない、と思いはじめている。
政府予算の査定というブラックボックスの中身が、一部とはいえ、大多数の国民にとっての重大の関心事として共有されたのだ。
ウェブ上はもちろん、普段は政治(政策)とは縁遠い日常の会話においてさえ話題となっている。

私は、市井の人々の「つぶやき」が社会を動かす大きな力となり得る、その可能性を感じている。
事業仕分けへの国民的な注目は、twitterの爆発的な流行と並ぶ、メディアに関わる2009年の重大事件として記憶されることだろう。
(二つの現象には意外に深い関係があるのかも知れない。)

公共図書館の課題解決支援を、すべての国民に「自己判断」「自己責任」が求められる時代において欠かせないサービスと主張したのは、常世田良氏であった。
言葉を換えれば、自立のための図書館サービス、ということになる。
その時代背景として、小泉政権が打ち出した市場原理主義的な一連の政策があった。
これらの政策を肯定するにせよ、否定するにせよ、市場原理主義的なポリシーの下では、サバイバルとしての自立が求められる。

では「自己責任」「自己判断」の自己とは、また、自立する主体とは誰か。
それは、国民一人ひとり、つまりは個人だった。
常世田氏は、現在の日本社会で特に求められる課題解決支援サービスとしてビジネス情報、健康医療情報及び法情報に関するサービスを挙げているが、これらも主として個人を想定したサービスといえるだろう。

個人の自立のためのサービスの重要性は減じたわけではない。
しかし、公共図書館の課題解決支援は、単に個人の自立のためのサービスという以上に、個人を社会につなぎ止めるためのサービス、最近、社会科学で使われる言葉を拝借すれば「社会包摂」のためのサービスだ、ということを忘れてはならない。
自立は依存によって裏づけられている」というのは河合隼雄氏の名言だが、心理学に限った話ではないのである。

事業仕分けは、日常会話の中に「私達の税金の使い道」についての話題を提供した。
政府の予算に関する知識は、個人の自立には直接結びつかないだろう。
しかし、個人を越えたレベルでの自立を考えた場合はどうだろうか。
社会学者の宮台真司氏と民主党政権の外務副大臣である福山哲郎氏の近著『民主主義が一度もなかった国・日本』(幻冬舎新書)の中で、宮台氏は、富の再配分という国家の役割に関連して、こう述べている。

「再配分の合理性と言いましたが、いろんな合理性があります。(中略)個人の自立ではなく社会の(国家からの)自立を補完する合理性。(中略)今日最も重要なのは最後に述べた補完。つまり社会の自立のための補完です。グローバル化が進んだ今日、国家の役割は社会の自立を支えることだというのが政治学的常識であり、かつ日本を除く先進各国の共通の政策的方向性です。<社会投資国家>といいます。」

政権交代によって、ようやく、社会の自立が政治のメインテーマとなる時代がやってきたのかも知れない。
事業仕分けに関する「つぶやき」が、twitterで、あるいは「お茶の間」で交わされる状況は、社会の自立への第一歩のように感じられるのである。

個人の自立の重要性は変わらないにせよ、社会の自立が日本にとっての最重要課題となる時代が来ているのだとしたら、図書館の課題解決支援サービスにも新しい方向性が求められているのではないだろうか。

ひとつは、個人の課題解決のための情報サービスを、個人を孤立(社会的排除)から救出する手段として見直す方向性だ。
たとえば、健康情報サービスにおいて患者会団体を紹介したり、多文化サービスにおいて日本語を学びたい人と教えたい人のマッチングの機会を提供したりすることが考えられるだろう。

もうひとつは、住民が、地域づくりのような社会的な課題に積極的に関わるきっかけ、あるいは、社会的な課題解決を志向する人と人のつながりをつくっていくきっかけを、公共図書館が提供する方向性だ。

先日、ある研修会で、東近江市立永源寺図書館の嶋田学さんが、地域づくりを支援する図書館サービスの実践について語ってくださり、図書館がもっている潜在的な力について認識を新たにすることができた。

このようなサービスにおいて図書館が提供する資料(知識・情報)は、当然のことながら、自館所蔵の出版物に限られるべきではない。
むしろ、知識や情報に関し、世界中にある利用可能な資源のマップを用意し、水先案内の役割を果たすことが、いまや公共図書館員の重要な役割となっている。

「マップ」と述べたが、図書館員が細部にわたって情報編集を行うパスファインダーから、むしろ衆知を集めるしくみを用意するウィキペディアやソーシャルタギングのような方法まで、さまざまなバリエーションがあり得るだろう。
後者の場合はそれ自体が、「社会の自立」のひとつの可能性をはらんでいるともいえる。

「社会の自立を支える」という文脈では、さらに、これらの知識や情報を利用する人々が新たな社会的関係を取り結ぶためのしかけを提供することが、今後は重要な意義を持つだろう。
それは、現代の公共図書館員にとってハードルが高すぎるだろうか。
私は、松本市立図書館の元館長、手塚英男氏がある講演で、「図書館界では、読書会なんか、と軽視されがちだが」といった意味の前置きをしたうえで、農村で農業をはじめとする地域に関する読書会を組織した数十年前の経験を語られたことを思い出す。
一方でtwitterのようなICTのイノベーションが日進月歩で進み、他方で心理学や教育学の革新によってグループ・ワークのさまざまな手法が開発される今日においては、同様のアプローチを新しいスタイルで行おうとすれば、さまざまな工夫の余地があるし、その意義は大きいと信じている。

個人の自立を支える図書館サービスから、社会の自立を支える図書館へ。
たとえ紙でできた本がなくなる時代がきても、公共図書館の文化的遺伝子が残っていくひとつの可能性が、そこにあるように思われる。

(注)当然のことだが、私は課題解決支援が公共図書館において最優先されるべき機能だと考えているわけではない。しかし、読書支援、学習支援等とならぶ、公共図書館という館種において顕著な機能と考えている。そして、これも当然のことだが、一つのサービスが複数の機能を果たし得るし、可能であればそれを追求するべきだ。

(豊田高広)

民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)

民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)

  • 作者: 宮台 真司
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2009/11/26
  • メディア: 新書



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2009年12月02日

図書館の児童コーナーが生まれ変わりました!

赤木かん子連続講座 in 下諏訪 Part II 報告

図書館の司書の仕事のひとつに本を並べることがあります。
司書は、あの本もこの本も捨てがたい、だから、ぎゅうぎゅうになるまで本棚に本を詰め込んでしまう。
でも、それは利用者の使いやすい図書館なのでしょうか。
ぎっちり詰め込まれた本棚を前に、よだれを垂らすのは図書館のヘビーユーザーぐらいです。
ちょっと図書館を見に来た人にとっては、味も素っ気もない、つまり魅力的でない場所とうつるのではないでしょうか?

図書館問題研究会長野支部では11月23日、24日に図書館プロデュースのプロである赤木かん子さんをお迎えして、下諏訪町立図書館の児童コーナーのレイアウトワークショップを開きました。
今回は2日間の講座なので自然科学分野だけを中心に行いました。

1日目は予備授業。
まずは絵本の紹介をかねて、絵本という形態の本の歴史をたどりました。
そして、現在は自然観察・人種差別・環境問題などなど、あらゆるテーマの本が絵本という形態で作られるようになっていることを学びました。
絵本という分類ひとつに閉じ込めておくことは不合理だとわかります。

2日目、いよいよワークショップです。
地域の図書館職員、学校図書館司書など25名が集まりました。
それはこんな風に行われました。

作業前.JPG

1 自然科学分野の分類体系をおさらいしました。

2 書架計画の立て方のアドバイス。
  本が何冊あるからこう並べるではなく、分類ごとに書架を割り当てて作っていく。
  しかも、ひとつのテーマで書架一列が上から下まで通っているようにする(人間の目は横に動きにくい、縦に動く)。

3 作業開始。自然科学分野をおく書架の本を全部棚から出す。
  ポスター・ぬいぐるみなども外す。

4 棚を拭く。

5 イラスト分類シールを貼った書架見出しを貼る(これで字が読めなくてもわかる)。

6 その分類に入る本を児童コーナー全体から集める。
  絵本であれ、大人用であれ。

7 本にイラスト分類シールを貼る(こうすると子どもでも返せる)。

8 魅力的な表紙を出して、見せる書架を演出する。

9 サインを貼る(ここから後は後日かんこさんがサービス出張でやってくれました)。

10 書架や椅子などに調和したぬいぐるみやポスターでさらに楽しさを演出。

作業後.JPG

写真を見てもわかるとおり随分変わりました。
実際利用者の動きも変わりました。
まず、幼児がこのコーナーに顔を出すようになりました。
児童は漫画ではなくコーナーにある本を読むようになりました。
それから、一緒についてきた保護者がコーナーの本をとって熱心に読み始めました。
驚くべき変化で、この講座をやってよかったなあとつくづく思っています。

(長野支部 井上喜久美)
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2009年11月23日

地域資料という名のモノたちと格闘してます

先日、自分が勤務している図書館に、小さな資料室の資料が丸ごと引っ越してきた。

第二次大戦中、東京は大規模な学童集団疎開を行った。
疎開と空襲という大きな惨禍を受けた過去を未来へ語り継ぐため、集団疎開の記念誌を作ったのがきっかけで、記念誌づくりの際に集まった写真や手紙、文書といった貴重資料を展示する資料室が、区内の小学校の一角に設けられた。
週2回の半日、シルバー人材センターの嘱託員と、疎開体験者のボランティアによって開室され、時にはその場で体験談が話されることもあったという。

それから10年、資料室の置かれている小学校が、児童数の増加により手狭になった。
そうするとこのコレクションはどこへ?
今後も公開していきたい、それも恒常的に公開できればもっといい、という方向で話し合いが行われた結果、図書館が引き受けることになったようだ。

話を聞いたときの第一印象は「正直、手に負えるかな?」だった。
中央館とはいえ、図書や雑誌、CDといった一般的な資料しか扱ったことはない。
戦前資料をコレクションとして持っている館も区内にあるが、そこにはもう場所がない。
「公開」が前提である以上、倉庫にしまいっぱなしというわけにもいかない。

場所は? 整理は? 運用方法は? 人は?
いろんなものが不透明なまま、移管の日は近づいてくる。
腹をくくろう。
見方を変えればとびきりの地域資料である。
限りなく博物館的なモノたちだが、「貴重な資料を市民に公開したい」というのであれば、図書館は有効な選択肢だろう。

引越前に資料室を見学。レイアウトや展示物の確認をしておく。
一応目録はあるが、どうも微妙。
「移転前に目録と現物の照合をしてほしいのですが」と頼んでみるも「…無理。」
だろうなあ。引き取ってから目録取り直しだな。
文化財係と連絡とって、今後の対処を検討しよう。
現物を目にすると、これをちゃんと扱えるのかという畏れと、現物の持つ力強さをきちんと生かしたいという思いが同時に浮かぶ。モノは偉大だ。

資料を引き取り、整理しながら痛感するのは、自分がいかに無知かということ。
集団疎開もある程度は知っているつもりであったが、記念誌を読んで初めて知ること多数。
そもそも、非図書資料の取り扱いについてここまで知らないことだらけとは。
今まで扱ってこなかったとはいえ、図書館に勤めて十数年というのに情けない。
不安もそこから来ているのは明白で、勉強のしなおしである。

とりあえず展示室の体裁を整えるだけで手一杯だが、じっくり腰を据えてとりかかるとかなり面白いコレクションだ。
その腰を据える時間が取れないのが現状なのだけれど、そこをきちんと計画立てて進めるのも司書の仕事、と上司に言われた。
それはそうだ。努力精進。

(M.I.)
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2009年11月16日

カモシカとしょかん

カモシカとしょかん.jpg今年、富山で1冊の絵本が出版されました。「カモシカとしょかん」です。
魚瀬ゆう子ぶん 水上悦子え 桂書房刊 1,365円

平成の大合併の後、北陸で唯一残った村、舟橋村は人口約3,000人、日本一面積が小さい村でもあります。
富山市のベッドタウンで、平成になってから引越してきた人と平成生まれの人が人口のおよそ半分ともいわれています。

1998年に私鉄の駅舎と一体化して建てられた図書館は近隣の住民をも引きつけ、人口1人当たりの貸出冊数は毎年40冊以上で、常に日本一の数値です。
人口1人当たりの数値は分母が小さければ高くなるのは当然ですが、図書館は村の人たちの暮らしに欠かせないものとなっています。
それは、舟橋村民の登録者が2,090人(2008年度末)と、村民の約70%の人がカードを作っていることからもうかがえます。

その舟橋村立図書館に、昨年7月思いがけないお客がありました。
国の特別天然記念物ニホンカモシカが玄関の自動ドアから入ってきたのです。
カモシカは誰を傷つけることもなく、自身ケガもせず麻酔で眠らされ、山に返されました。
この日の顛末は「みんなのとしょかん」2009年1月号の「カモシカ入館騒動記」に詳しいのでご覧ください。

館内にいた利用者の方が撮った写真です。.JPGカモシカの捕獲の際、図問研中沢委員長の危機管理の講演を聞いて用意したサスマタが役に立ったということを知り、私は喝采しました。
ゴム手袋等を備えていたことも、後始末の際、獣医さんに感心されたそうです。

全国ニュースにもなったカモシカ騒動を、絵本にしたいと考えた村立図書館の司書が村当局の理解を得て予算取りし、県立図書館の司書が文を書き、地元作家さんの絵で本が出版されたのは、ちょうど1年後の今年7月でした。
初刷り1,000部は完売し、増刷しました。
地方小出版流通センター扱いで、全国の書店から購入できます。

(富山支部 田中史子)
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2009年11月11日

レファレンスのコスト・パフォーマンスをどう高めるか

図書館の<高度なレファレンス>は官のサービスとして質が高すぎ(コストがかかりすぎ)ではないか、という発言が、大阪府立図書館への市場化テスト導入を巡る記者会見で知事からありました。
このことについて「レファレンスのコスト・パフォーマンスは、図書館サービス全体にそれがどう反映され、どれだけの市民に還元されているか…という観点から計られるべきである」という反論を考えてみました。

図書館のレファレンスが<一個人の質問に対しての回答>で終わってしまうなら、かかった時間×職員の時給、という計算でいいでしょう。
しかし、私が日々行っている業務を考えるとこの計算は成り立ちません。
一つのレファレンスから派生して、様々な業務が生まれているからです。

一例をあげましょう。
先日も、2日間国会図書館に通って官報をつぶさに見たが欲しい情報を探しきれなかった…というビジネスマンが当館に来ました。
求めているのは「個人の破産情報」であると聞き、私は全文が検索できる官報情報検索データベースを使い、数分で求める情報を見つけました。
もちろん、これらの情報は国会図書館にもあるものです。
しかし、国会図書館は個人利用に重点を置いた施設ではないので、人的ナビゲーションが十分ではなく、あるはずのものが探せない…ということが往々にして起こるのです。

このケースが重要なのは、そこで行われている市民の情報探索の自立支援です。
私が数分で行ったのは1件の調べ物の探索時間の短縮であるとともに、<官報情報検索データベースの存在と利用方法を知らせる>という調べ方の案内でした。
このことで、彼は今後の同種の情報探索にかかる時間を大幅に短縮し、その時間を情報の活用というビジネス活動に振り分けられるようになった…ということになります。

平均単価1万円の高価な専門書は、ただ棚に置いてあったのでは一部の専門家のみにしか存在を知られず、また、全くの素人には使いこなせないものです。
しかし、そこにどんな情報が載っているか職員が知っていれば、求める市民の声に応じて必要なページを開き、情報を提供することができます。
これがレファレンスです。
1万円/1人という資料に対する投資を、1万円/全ての市民にする費用対効果の高いシステム整備がレファレンスという「人的ナビゲーション」なのです。

これは、持っている資料に限った事ではありません。
優れた図書館員は、自館で何ができないかを知っています。
利用者の求める情報は自館では提供できないと瞬時に判断するや、次の段階(ネット上の代替情報の提供や他機関への紹介・照会)へと進みます。
資料費が十分でない図書館ほど、優秀なナビゲーターの存在が必要です。
今ここになくても次はどこに行けばいいか…という情報提供が、市民の情報アクセスを保証し、情報チャンネルを拡大し、図書館に対する信頼と満足感を高めるのです。

また、有用なレファレンス事例はデータベースとして蓄積します。
そうすれば、図書館で同様の質問を受けた時、探索にかかる時間を大幅に短縮することができるからです。
このデータは国会図書館の「レファレンス協同データベース」に提供することで、全国の図書館「共有知」として有効活用できます。

さらに、こうしたレファレンス事例の中でもよくある事例を、図書館でテーマ別にまとめて編集し、市民のための情報ナビゲーション・ツール(パス・ファインダー=調べ方の案内)として図書館ウェブサイトに掲載したり、図書館で配布したりしています。
こうした情報提供は、「図書館ではどんなことが調べられるか」の宣伝となり、かつ、「自分で調べる」手助けにもなります。
図書館員は基本的な探し方や情報についての説明が省略できるので、カウンターで個別のより具体的な、深い情報欲求を引き出し、その探索を支援することができるようになるのです。

市民一人ひとりの情報リテラシーと持てる情報環境には大きな格差があります。
同程度の読解力があっても、IT教育を受け、職場に整備された情報環境があり、自身で資料選別と購入ができる情報強者に比べ、自力で情報にたどり着く術のない情報弱者(例えばインターネットがない時代に育った高齢者)では、入手できる情報の質と、その情報に辿りつくためにかかる時間には大きな差が生じています。

また、情報地図は近年急速に変化しています。
市民に公平に開かれるべき統計情報を例にとっても、インターネットでの情報公開を契機として、従来あった紙媒体での発行が続々と中止されています。
現在の知識が明日も通用するとは限らないのです。

老いも若きも富める者も貧しき者も、全ての市民が社会環境に適応し、安心で文化的な生活を営む手助けをすることが、図書館の大きな使命です。
図書館は、情報化社会から疎外される高齢者層のためのセーフティネットであり、高額なデータベースや専門書を自社では揃えることのできない中小企業の公設資料室であり、町の診療所の医師や看護師のための病院図書室であり…情報支援に関わるあらゆる機能を備えています。

図書館の、レファレンスから始まる情報支援のシステムを整えましょう。
そして、図書館員とはいわば図書館を動かすCPUであり、その性能が高いほど、よりよい情報が短時間で得られる…ことを市民に<見える化>しましょう。
そこまでして初めて、「レファレンスへの初期投資は市民に様々な形で還元され、元は取れている」と市民に自信を持って主張できるのだと思います。
(神奈川支部 吉田倫子)
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2009年11月02日

図書館をたとえると

図書館に勤めるようになってしばらくしたころ、図書館って新聞のようなものだなと思った時期がありました。
中央図書館、大きな図書館は新聞全体、地域館は家庭面と考えたのです。
家庭面には家事だけではなく日常生活のさまざまな事柄が載っていました。
社会状況の変化、新聞のページ数の増で、教育や医療など独立したページ構成になっていったものもありますが、おおむね家庭面で取り上げられていた内容だと思います。

それからしばらくして、図書館ってお医者さん(医療機関)のようなものかなと思うようになりました。
家の近くの開業医(家庭医)が身近な図書館、病院が大きな図書館という具合。

日常的には近所のお医者さんに診てもらっている。そこでは医師と看護師くらいしかいない。ところによっては医師とほかにはその奥さんだったりした。
検査や手術が必要な時には大きな病院へ行く。
そこでは診療科がいくつも分かれていて、働いている人も医師、看護師、薬剤師、レントゲン技師、理学療法士、検査技師などの医療専門家のほかに事務員、栄養士、調理の人たち等々いろんな人たちが働いている。

思いついた当初は、図書館はお医者さんのようには細分化していなかったし、今も公共図書館というレベルではそんなに分かれていないけれど、図書館全体を見れば専門図書館がありますよね。
専門職としての司書がもっぱら問題にされてたけれど、事務職の人はいたし、図書館にはいろんな職種の人々が働ける可能性はあると思ったし、巨大な図書館ができればその中でも専門分化していく可能性はあると思いました。

そのようにたとえが変化した理由については、館規模の違う図書館に勤めたことも影響したかもしれません。
その後、規模では全国でも有数の中央図書館ができ、そこで働いたことはそのたとえを補強したと思います。
現実は全然病院とは違いますけどね。

そんなわけで『みんなの図書館』8月号の特集記事で豊田高広さんが図書館を病院にたとえているのを見たときは嬉しく思いました。

しかし、豊田さんのたとえを読んでいて、ちょっと違うかなと思うようになったところがあります。
豊田さんはビジネス支援を専門医に割り振って、家庭医の領域じゃないような書き方をされているのですが、家庭医ってもっとできるんじゃないかと考えるようになりました。

風邪は万病の元じゃないけど、何気ない症状のものが結構重篤な病気の初期症状だったりするものがあるし、それを最初に見極めることが家庭医の段階でできることは大事ですよね。
散々医者めぐりをした挙句わかるのとでは大違いでしょう。
ホスピスという専門機関があるけれど、最後を家で終わりたいというときも診てくれるのは家庭医じゃありませんか。
家庭医が名医であることはものすごく大事なことなんじゃないの!!!

ということで、地域の小さい図書館が日常のサービスの中でさまざまな要求に応え、大きな図書館や関係機関につなぎ、またそれらの支援を受けながら利用者の要求に応えていくことの重要性を改めて感じたのでした。
豊田さん、感謝! 図書館=医療機関説っていいたとえよね。

(神奈川支部 川越峰子)
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2009年10月26日

市民は図書館員をどれだけ知っているのだろうか。また図書館員は市民をどれだけ知っているのだろうか。

10月5日に東京支部では、2009年度の「図書館スタッフのための仕事のツボ講座」(非常勤職員・委託スタッフのための図書館連続講座)の第1回を行った。
テーマは「公共図書館の基本」で、講師は前委員長の川越峰子さん。
宣伝が行き届かなかったのか参加者は24名と少なめであったが、注目すべきことに非正規職員ばかりでなく、市民の方が2人参加していた。いずれも市民運動では有名な方である。
終わったあと感想をお聞きしたところ、「こういう話は初めて聞いた。大変良かった」と言われた。
図書館員としてみれば、後半の民営化や政策動向に関する部分を除けば川越さんは特別な話をしたわけではなく、自治体の図書館の新任研修でも使えるような内容である。
いわば全国の図書館員がある程度知っていても不思議ではない話であったので、ちょっと驚きを感じた。

18日には、多摩地区のある市で図書館委託問題の講座があり、今度は私が講師に招かれ、業務委託や指定管理者制度、職員問題などについて話をした。
終わった後の質疑応答で市民から意見が出た。「でも今の図書館は市民の意見を聞いてくれないし、市民のほうを向いていないのではないか」と。
私からみれば、多摩地区らしくそれなりに高いサービス水準を誇っている市である。
参加していた館長や職員が弁明するのを聞きながら、ふと考えたのは「市民は職員の仕事をどれだけ知っているのだろうか」ということであった。

どこの市民運動でも「専門職としての司書の配置」が叫ばれる。
しかし、その司書が図書館のシステムの中でどのように働き、どのような仕事をしているのかがわからない。したがって専門性がどこにあるのかも理解されない。
司書さえいればすべてうまく行き、素晴らしい図書館が作られると思い込む。
その結果、ただ「司書を」と叫ぶだけになり、あげくに近頃は、非常勤や委託スタッフの不安定雇用の司書ばかり増える結果になっていないだろうか(もちろんこれらの人も司書であるほうがいいには違いないが)。

いっぽう職員の側にも問題はないだろうか。
市民の図書館』以降、日本中のほとんどの公立図書館員は市民に顔を向け、市民のために仕事をしてきたという意識をもっているはずである。
この市の職員だってきっと同じ自負を持っていると思う。あんなことを言われて心外に違いない。
同じ思いは、私の自治体での委託反対の集会で私も感じたことがある。

「私は市民のために司書として献身的にがんばっている。」
そう思うのは素晴らしいが、それと実際の市民の声を聞き、それを活かそうとしているかとはまた別である。
「とりあえず『市民の図書館』の流れにある現在の図書館の最新動向を知り、先進事例なども積極的に取り入れてきた。それについて来られないのは民度が低いからではないか。そんな市民は啓蒙してやらなければならない」なんて考えている図書館員がいたら、困ったものである。

10数年前、よその部局から移ってきた職員の研修に『市民の図書館』を使って、説明したことがある。
終わった後で感想を聞いたら「なんだか宗教みたいだ」と言われた。
その時は「宗教じゃなくて、そのくらいの熱意をもってほしいということです」と答えた記億があるが、今思うとこの感想はなんとなく理解できる。
「市民のために働く司書」という言葉は、宗教的幻想を生み出しているのではないだろうか。
信仰は、その考えに共鳴するものには美しいが、同時に排他的でもある。
宗教戦争の多くの原因が、外部のものにはまったく理解できないように。

今必要なのは、市民の願いをすべて察知してすべからく実行するようなスーパー司書を作り出すことではなく、市民と図書館員がもっと交流し、図書館の仕事と市民の希望を理解しあうことではないだろうか。
そんな試みのひとつとして、手前味噌ではあるがこんな話を紹介したい。

私のかつて勤めていた図書館には「利用者の会」があり、毎月定期的に職員との交流を行っていた。
そこで市民の希望により、図書館の仕事を担当ごとに説明することとなった。
たいていの担当は新任研修と同じようにレジュメを用意し、口頭で説明するにとどめた。
しかし、選書の担当だけは違っていた。実際に選書をしてもらう道を選んだのである。
見計らい棚からブックトラックに新刊図書を積み、メンバーの一人ひとりに4〜5冊も図書を渡して、それぞれがこの図書館の蔵書として入れるべきか否か、またその理由を答えてもらったのである。
その後で図書館側からの講評を行い、食い違ったものについては選書基準などを使って丁寧に説明した。
選書とはこうしてするのかと、今までになく好評であったことは言うまでもない。
また、もし評価をめぐって突っ込んだ質問があれば、図書館側の選書基準の相対化、見直しにもつながったはずである。

たぶん、声高々に理想を叫ぶより、こういう地道なことの積み重ねが本当に必要とされているのではないかと思う。
インターネット予約の増大により図書館の作業が大きく変わっており、そういったことを裏にとどめずに表にさらして理解してもらうことで、委託の是非なども具体的に議論できるのではないだろうか。
サービスの受益者と提供者という溝を越えて、市民と図書館員は共に図書館を作っていくという関係でありたいものである。

(東京支部 小形亮)
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2009年10月12日

図書館司書の仕事ってなに?

司書の仕事は色々ありますが、質問者の求める情報を本から探す場合(レファレンスとも言います)、タイトルや著者、出版者といったわかりやすい検索方法以外では、2つの方法があります。

1つ目は分類です。
日本では日本十進分類法(Nippon Decimal Classification)がよく使われています。
NDC(よくこのように略します)は、0から9までの数字を使って出版物を分類するというものです。
出版は人間が興味を持つあらゆる分野で行われていますから、NDCは森羅万象を分類しようというものと言ってよいでしょう。

2つ目は件名です。
件名とは、資料の主題や形式を表す言葉で、使える言葉が決められています。
件名があれば、タイトルではわかりにくい本の内容を把握することができます。
伝記などでは、主人公から検索できます。

分類と件名を使って、司書は質問を分析・検索し、本および情報を提供していきます。
無論、求める情報は本にだけあるのではなく、新聞記事や雑誌論文、現在ではウェブに掲載された生情報まで探す必要があります。
質問者にインタビューをしながら、その館の蔵書構成の中だけでなく、都道府県立・国立国会図書館の資料やウェブ情報を視野に入れつつ、どのような戦略で探索すべきかを司書は、考えるわけです。

そういった様々な図書館・情報を俯瞰した視点から把握していく技術は、分類や件名を理解しただけでは手にすることはできません。
選書という仕事を通じて、学んでいくことが必要です。
毎日出版される本を確認し、カウンターでのやり取りから感じられるニーズや利用状況を踏まえて蔵書を構築し、またその結果から改善していくという繰り返しの中で鍛えあげていくのです。

したがって、カウンターや書架整理(排架・除籍)という業務なしには選書はできませんし、そのサイクルを分断してしまっては図書館の仕事が回らなくなるのだと思います。
仮説実験のようなものです。
カウンターでのニーズの把握(仮説)→選書での蔵書構成への反映(実験)→書架整理(排架・除籍)での利用の実証確認(検証)・・・を繰り返すことで、時代の変化に合わせて蔵書を変えていくことが可能となるのです。

そういった意味で、司書は自ら考え、学び続ける力が不可欠で興味深い仕事です。
司書には旺盛な好奇心が必要だと思います。
他人の「知りたい」という要求に応じて、ベストと思われる資料を探す技術には、ひとつには「共感力」が必要です。
もうひとつは今持っている知識を疑い、別な何かがあるかもしれないと、謙虚に探索する好奇心が必要なのです。

最後に、図書館で働いていてとても感じることは、司書の仕事はチームでやる仕事だということです。
一人のスーパー司書がいても良い図書館ではないのです。
資料の新陳代謝を繰り返しながら次の世代へ資料をつないでいく図書館では、自ら考える力をもった司書が必要で、カリスマ司書のイエスマンがいくらいてもダメなのです。
蔵書の構築やレファレンスは個人プレーで終わらせず、チームとして、司書が集団として育っていく環境が良い図書館の条件だと思います。

(W.Y.)
posted by 発行人 at 07:38 | Comment(0) | リレーエッセイ | 更新情報をチェックする

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