<図書館に造詣の深いSEさんから情報いただきました。少し長いのですが、こんな脱出行もあったようです>
3月11日の東日本大震災から2週間が過ぎました。亡くなった方々や未だ行方不明の方、今も避難生活を送られている方のことを思うと胸が痛みます。
私たちは、東日本大震災を松島で遭遇しました。色々な方々にご心配いただきありがとうございました。特に皆さん、私が喘息の発作を起こしているのではと心配してくださったのですね。危ない場面もありましたが、その時々に手を差し伸べてくださる方々がいて、発作も起きずにすみました。15日に無事東京に戻ってきました。私たちは他の方々と比べたら本当に、本当にラッキーとしか言いようのない避難生活でした。皆さんに叱られそうな震災遭遇記をまとめました。
・仕事で遭遇?
実は3月11日は、会社の
自彊術仲間と有休を取って鳴子温泉一泊旅行の予定でした(ちなみに自彊術は、大正時代に中井房五郎氏が案出した自然治癒力を高める体操です。この体操のおかげで私の喘息は随分改善しました)。鳴子散策をするつもりだったのですが、前日に連絡があり鳴子は毎日10センチの雪と聞き、山用雨合羽のズボン、スパッツ、夜の体操のためのシルクのパジャマ、毛糸の手袋など普段の私にしてみれば準備万端で旅立ちました。それが後で大いに役立ちました。
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3月11日(金)
・実は、震度7は経験していないのです
4人で旅行予定でしたが、二人は仕事が休めず現地合流ということで、私と自彊術の師範であるSさんは、初めての松島を遊ぼうということで朝から東京をたちました。12時に松島海岸に着き、まずは「
漁師の海鮮丼」で腹ごしらえ。それから
瑞巌寺で正宗公と円空の仏(この仏に救われたと私は思っています)を拝み、警備のおじさんから石にはいつくばった大木も見せていただき、遊覧船を堪能していました。
突然、船がエンストのように揺れ、こんなところで水没したら即死だなと思っていたら、「今のは地震です。安心してください」とのアナウンス。友達と目を見合わせ、「それって何? 津波が来るでしょう!」。幸い船着場は5分ほどで着きました。そしたら、今度は声色も変わり「津波がきます、すぐに非難してください!」初めての松島です。地形も分からず、咄嗟にさっき言葉を交わした警備のおじさんを思い出しました。おじさんを探すしかない。私たちは誘導もありましたが、瑞巌寺へ向かって必死に走りました。後で話を聞いたら、地震の時はやはり海の上が一番安全なのだそうです。
・野原で野宿?
おじさんに会い安堵し、避難誘導に従って瑞巌寺の裏にある駐車場へ向かいました。外は雪、寒さもひどく、余震も長く何度もありました。駐車場にも亀裂が走っていました。持っていた雨合羽のズボンを思い出し、その場で上から履きました。凄く冷たくて、ちょっと喉がやばいかな?と思っていたところ、警備のおじさんが瑞巌寺のシルバー人材センターの知人に声をかけてくれて、軽四に少しだけ乗せていただき寒さを逃れることができました。数分後、瑞巌寺やシルバーの方々が焚き火を起こし、みんなその周りに集まりました。今日はここで野宿かと思うと、とても寒さに耐えられないなと不安になりました。

・陽徳院の修行道場へ避難
6時過ぎていたでしょうか、全員が愛姫の菩提寺である陽特院の修行道場へ避難しました。総勢300名ほどいたと思います。私たちは背もたれができる柱の場所を確保しました。畳であった上、座布団も配られました。しばらくして地元の
阿部蒲鉾と
松島蒲鉾からかまぼこの差し入れがありました。以後、いろんなものにかまぼこが出てきました。おにぎりと熱いお茶も出されました。阪神大震災で何より暖かいものが出なかったと聞いてたので、熱いお茶は本当にありがたかったです。
瑞巌寺には13人の雲水さんがおられたようで、皆さん一睡もせずに私たちの世話をしてくださいました。トイレも池の水を汲んできて流してくださいました。他の避難所は立って寝たとの話がありますが、広い部屋にはストーブも2つあり、寒いながらも横になって寝ることができました。

・パジャマが活躍
隣にいた方が震えが止まらないようすでした。持ってきたパジャマを貸し、手袋は足にはめるよう薦めました。この方たちは私たちより早くに出て行かれました。後に届いたメールによると、山形の弟さんに支援を依頼し、新潟経由で帰られたそうです。後日、その他にも今回知り合った方々とメール交換をして、パジャマも受け取るついでに新宿で交流を深めました。みんなで松島リベンジツアーをできる日を待っています。
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3月12日(土)
・自彊術の披露
朝起きると体が四角い金属板のようでした。雑炊が支給され熱いお茶も出ました。瑞巌寺はプロパンガスだったので煮炊きが可能だったのです。Sさんを誘って雲水さんに断り廊下の端を借りて体操をしたところ、体がほぐれました。ここでいつもの仕切り屋が頭角しました。お寺に話をし、皆さんに呼びかけたところ50人ほどの方が一緒に体操をしてくださいました。体操は解散するまで午前と午後みんなでしました。
・これでいいの?
お昼も夕飯も何不自由なく雲水さんのお世話になるばかりで心苦しく感じ始めました。せめて食後の洗い物でもお話させていただきましたが、「これも修行」と断られました(同僚は勝手口まで入り、お茶碗洗いを手伝えたそうです)。保健士の方が、夕方気分の悪い方がいないかチェックに入ったのは夕方でした。
・ガソリンがない
松島は水道も電気も鉄道もなく孤立状態でした。仙台には電気がきているとの情報が入ってきましたが、脱出するにもガソリンがないため車がだせません。車が津波で流された方々、お土産屋の品が参道に散乱しているなど、少しずつ周りの状況が見えてきました。愛媛からの団体は別の車が用意され、午後には出ていきました。
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3月13日(日)
・掃除でまた仕切り?
この日もお世話になりっぱなしでした。お昼ごはんが終わった後、掃除をしますとのことで、毛布や座布団が集められました。大きなお部屋の掃除はこうやってするのだと効率的な箒さばきに感心しながら、私たちも手伝わせて欲しいと申し入れ、承諾を受け、座布団の回収やホコリ払いなどをこれまた仕切ってしまいました。雑然と陣取っていた寝場所はこのとき整然としき並べられ、毛布も一人1枚確保されました。レストランを経営するしんちゃんという方からカステラの差し入れがありました。甘くて本当においしかった。
・多賀城が燃えている
午後、知り合った方数人と外に出てみました。津波警報は出ていたので海岸には近づけず、新富山の展望台へ行きました。松島もよく見えましたが、石油タンクのある多賀城から燃え続けている石油の煙が見えました。沖には津波でもっていかれた遊覧船が浅瀬に打ちつけられていました。
松島は湾のため津波は決しておきないと伝えられていたそうです。その松島でも参道の半分まで津波がきたのだから、他の被害がどのくらいだったか想像を絶します。南北に10キロ離れていたら200〜300人の方が亡くなっているのですから。この日の夕方、学校から子どもの安否確認がありました。

・野蒜から奇跡の生還Hさん
午後、Sさんがとんでもない方と知り合いました。奥松島で津波に遭遇し、奇跡的に脱出し4時間歩いて松島までたどり着いたHさんです。聞けば普段から生死に関わる作業をされているとのこと、彼は生きるべきして生かされたと思いました。
津波にのまれ、間一髪で車から脱出し、引き潮で持っていかれそうになる体を柱にしがみつき生き延びました。着るものは2階で取り残された方に借りられたそうですが、当然無一文です。高崎の方で私も知っている宝石店をご存知とのこと。「私と一緒にいれば、お金はお貸しします」と約束しました。とても興奮していてPTSDが心配で、二人で何気なく見守っていました。彼に会わなかったら、私たちの地震に対する想いはきっと違っていたでしょう。
・スパッツが活躍
津波警報の合間を縫って、地元の方や車を流された人達が海岸へ向かいました。大阪の二人組が酒屋に乗り上げた車を見にいくというのでスパッツを貸しました。これで、余分に持ってきたもの全てが活躍しました。
・
観月楼 船着場の傍にあるお土産屋さんの観月楼の被害はシャッターを下ろしていなかったので一番ひどかった。参道に散らばっているのは自分の商品で、瑞巌寺に申し訳ないと女将さんが話していました。ヘドロに浸かっても缶詰や真空パックのふかひれ等は食べられるから、津波警報が解除されたら雲水さんが掃除にいくとのことでした。
夜はなかなか眠れず、女将さんにお願いして地元のお話など聞かせていただきました。3年前に亡くなったご主人が、息子と同じ大学で合気道をやられていたのも何か縁があったのでしょう。おかげで避難所にいながらお菓子の差し入れにも恵まれていました。
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3月14日(月)
・参道の掃除
朝の雑炊をいただいた後、観光客の方に声掛けして参道の掃除をしました。散乱している品物は、(1)箱は汚れてるけれど中は大丈夫、(2)ちょっと汚れているけど洗えばOK、(3)ヘドロにまみれているけど食べられる缶詰や真空パック、(4)断念するゴミに分け、みんなでヘドロと苦戦しました。気がつけば率先して参道のヘドロを掃除してくださる方もいました。お店の中のヘドロを除去する学生たちは、本格的なボランティアは初めてだと張り切って手伝ってくれました。どこで聞きつけたのか朝日新聞の記者が取材に来ました。主婦ですかと聞かれたので、しっかり会社の宣伝もしてしまいました。
・宮古が全滅?
津波警報が出たのであわてて寺に戻ると、先ほどの記者から宮古の状況を聞いたスパッツさんが泣き崩れていました。宮古にはだんな様がいて、地震直後には安否確認が取れていたのですが、その後音信不通になっていたのです。宮古は全滅に近いとのことで帰ることができず、大阪の実家で立て直すと気丈にも話してくれました。後日Sさんから、だんな様も大阪入りし、28日は二人で宮古へ向かうとのメールが入りました。時間がかかっても再出発する二人にエールを送りました。
・お昼は菓子パン半分、そして解散
お昼は菓子パン半分(と私は記憶してますが、同僚は1個だったと言ってます)とトマトでした。援助物質が届いたのですが、いよいよ食べ物も底をついてきたのでしょう。消防署と警察署の方から話があり、仙台から山形行きのバスが出ているので、午後2時に観光客を仙台まで送るとのことでした。松島町教育委員会が2台のマイクロバス分のガソリンを調達したのです。ここにこれ以上いては迷惑がかかる、そう思いました。
・
浦霞大吟醸
バスの時間まで1時間ありました。お店にはまだ被害を受けていない飲み物や牛タンなどがありました。数人を誘って食べ物だけはかき集めようとお店に行きました。そして、本日の野宿?のためにお菓子とちゃっかり浦霞大吟醸を一本、女将さんは快くくださいました(次回お伺いしたとき、倍返ししますからね)。
・バスで仙台へ
お世話になった毛布や座布団を一箇所に集めましょうと、最後の仕切りをし、仙台へと移動しました。別れ際に、雲水の方が手をとってくれ、これから先の私たちの仙台での心配をしてくださったのには胸が熱くなりました。総勢50名が仙台へ非難です。仙台市立図書館の知人に図書館で避難可能か連絡しましたが、図書館は既に閉鎖、彼女は中学校で支援活動、自力で頑張ってくださいとメールが返ってきました。仙台は電気が通じていたので携帯も通じたのです。
・新潟行きバスチケット確保
バスを降りると、みんな一目散に山形行きの高速バス乗り場をめがけて横断歩道も無視して飛び散っていきました。私たちは最後のほうだったので警備員さんに呼びとめられ、地下道を渡るべく迂回しました。そこで津波にのまれたHさんがいないのが発覚。お金をまだ渡していなかったので心配していたところ、地下道でHさんと会いました。ちょっと離れていた間に、Hさんが新しい情報を入手し、駅の反対側から新潟行きのバスが出ていることが分かりました。新潟からなら新幹線が走っている!
駅で携帯を充電させてもらい、案内所は閉まっているのでインターネットでチケットを購入するよう言われましたが、QRコードを読ませるのがまどろっこしくていけません。会社の同僚にインターネットでチケット購入をお願いしました。このとき、私たちは8人まで減っていました。しばらくして明日のチケットが取れたとのメールが入りました。ただし6人分!後は21日まで満席だそうです。この中の2人は帰れない!同僚のSさんに、私たちが残ろうねと目配せしたらうなずいてくれました。
・仙台で野宿?
21日のバスなんて気が遠くなりそうでしたが、まずは今日の宿を確保しなければなりません。電気がついていてもビジネスホテルは全てクローズ。会社の人が避難していると聞いたメトロポリタンも人影がありません。
トイレだけ借りて避難所に指定された県庁へ行こうとしていたとき、一人の携帯に、営業しているネットカフェがあるとの情報が入ってきました。それまでも気をつけて見ていたのですが、どこも閉まっていたのが、行ってみたらなんと営業しています。8人分の場所を確保できて野宿は避けることができました。途中にどんぶり屋も見つけ、あと10食しか残っていないところへ滑り込みセーフ。避難していた話をしたらお手製のフルーツケーキをご馳走してくれました。
・浦霞で乾杯
食事から戻って最後に皆で集まり、いただいた浦霞で乾杯しました。Hさんは1合ほど一気に飲みほし、多分地震から初めてぐっすり寝たのではないでしょうか。浦霞はHさんのためにいただいたのですね!
・明日帰れる!?
浦霞を飲んでいたとき、Sさんの義兄から翌日15時半の山形空港から羽田空港へのキャンセルが出たと連絡がありました。帰れる! でも、山形空港までどうやって行くの? 空港バスはいっぱいだし。そしたらまた連絡があり、県庁前から乗り合いバスがあるとのこと。どんなことをしても明日バスに乗る!
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3月15日(火)
・朝5時に250人
朝5時に県庁前に行ってビックリ! なんと既に250人の長蛇の列。15時半の飛行機に乗れるかなあ?? 列は凄い勢いで長くなるけど、バスは一向に来る気配がありません。私の隣は取材されていましたが、後で嫁さんのお父さんから「お母さん並んでました? 姿うつりましたよ」と電話がありました。派手なピンクのダウンは目立ちます。このまま並んでいてもせっかくの飛行機のチケットが無駄になると、通るタクシーを止めても止めても、どれも山形空港までいける燃料がありません。
その時、ふっと反対車線に個人タクシーが止まりました。グリーンベルトを突っ切って交渉すると、なんと行ってくれるというではありませんか!昨日聞いていた料金の倍でしたが、そんなこと言ってられません。ちょうど同じ飛行機に乗る子連れの方がいらして一緒に山形空港まで乗り合いました。
・温泉に入りたい?
空港には朝8時前に着きました。11時過ぎになって、10分ほどのところに温泉町があり営業しているとの情報が入りました。15時半の飛行機なら十分間に合います。「行こうか!」と言った矢先に、また義兄から、12時半の飛行機にキャンセルが出たと連絡がありました。温泉行きは取りやめ、急いでチケットを交換。それでも到着が1時間遅れているというので、レストランで食事を取り、お土産を物色していたら、同僚が「私たちの乗る飛行機、Boardingってなってるよ」しかも、なんと名前を呼んでいるではありませんか。私たち二人のために飛行機を遅らせる落ちまでついて、東京へ無事帰還できました。
・生かされて
結局、誰よりも私たちが早く東京にたどり着きました。思えば、新潟行きのバスチケット6枚を強引に私たちが入手していたら、きっと私たちの運は「
蜘蛛の糸」のように、その場で尽きたことでしょう。
夜、無事着いた高崎のHさんの奥様から涙いっぱいのお礼の電話をいただきました。野蒜の悲惨な状況をテレビで見られていたので、どんなにか心配したことでしょう。昨年、会社のサークルで「ちゅだみどぅでみ(沖縄の言葉で人為我為)」という文字を入れたTシャツを作ったのですが、あの言葉はまさに今回のためにあったのだと、改めて思いました。
今でも避難所で暮らす人達がたくさんいます。津波で大勢の方がのみこまれていったのに、私たちが生かされたのは、きっとこれからまだ生きていく意味があるということなのでしょう。9月に定年を迎える身ですが、まだ私にできることを探していきたいと思います。